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『シスターフッドを余儀なくさせる社会よ、振り向け、振り返れ!』

丘田ミイ子(文筆家)

― 後方の誰かに向かって振り向く自分の姿と前方の誰かが自分に向かって振り向く姿。

「振り向け!」という言葉を聞いたとき、果たしてどちらを想像する人が多いだろうか。

舞台中央に置かれた四角い箱。その中に丸めた紙をボールのように投げ入れる人々の姿がある。紙にはそれぞれの名前が書かれている。前方にいる人々はいとも容易く箱の中にボールを入れられるが、後方の人間が投げたボールはその壁に遮られる形で弾かれてしまう。一人の人間の肩をかすめ、そのまま床へと落ちた紙のボールは勢いよく転がるでもなく、ただ所在なくそこに取り残される、はずだった。それを拾い、広げ、振り向く人間がいなければ。

劇26.25団『振り向け!』は、まさにこんな風に二人の女性が出会うところから始まる。

LINE_ALBUM_ゲネプロ写真 ©Maiko Miyagawa_241123_20.jpg

劇26.25団『振り向け!』 撮影:宮川舞子

アパートの大家である雨宮奏子(わたなべあきこ)はその住人の鴻坂萌(梢栄)が夜な夜な子どもを背負って帰宅する姿を気にかけていた。シングルマザーの鴻坂の人生はたしかに険しいものだった。イラストレーターとスナック勤務を掛け持ち、3歳の息子・太一の育児に追われる中、突如再会した元夫(鈴木祥二郎)が目の前で死んでしまう。その死の真相にも不穏さが漂う中、それでも子どもを育てなければならない鴻坂はギリギリの心身で1日を終えるので精一杯。そんな中、大家業と並行してコワーキングスペース「ポート」と登録制ベビーシッターの仕事をしている雨宮は、ポートで鴻坂と再会したことをきっかけに戸惑う鴻坂を半ば押し切る形でベビーシッターとして親子の生活に入り込んでいく。ポートの管理人である本屋敷(杉元秀透)も太一を風呂に入れたり、ハッピーセットのおもちゃを集めたりと間接的に親子に関わるようになり、やがて家賃の捻出すら厳しくなった鴻坂親子を雨宮は自宅に住まわせる。ここまで強引にサポートを推し進めるのには理由があった。かつて、雨宮は街中で男に激しくぶつかられた時に鴻坂に助けられていたのである。しかし、そのことを鴻坂は覚えていない。

そんなある日、太一が保育園で女の子のお尻を触ったということをその親である小野樹里(リサリーサ)から聞かされる。樹里の夫・優之介(長尾長幸)を伴って話し合いが進められるが、スナック勤務のシングルマザーであること、変わった同居生活を送っていることなどから不躾な偏見や同情の声をぶつけられた鴻坂は、謝罪をしてその場を去る。そして、太一をおぶって、そのまま雨宮の家も飛び出してしまう。

「気をつけてね!」

カーテンの向こう側、子どもの形に膨らんだその背中に向かって雨宮はそう叫んだが、鴻坂は返事をしなかった。小さく一度だけ頷いて、そのまま夜の雨の中を進んでいった。きっと、一度も振り返らずに。二人を、あなたと私を隔てるカーテンが揺れ続けるのを私はただ見つめることしかできなかった。痛ましく、憎らしく、腹立たしいラストシーンだった。

劇26.25団『振り向け!』 撮影:宮川舞子

異なる立場、境遇、属性の二人の女性の出会い、そしてその運命の交錯が切々と見せつけたのは共助の大切さ、シスターフッドの美しさ、ではなかった。そこにあったのは、複雑な人間によって構成されたこの世界で、複雑な人間同士が手を差し伸べあって生きることの生々しいまでの難しさであった。そして、私はそのことにこの物語の、演劇の誠実と切実を痛感した。いつからか「シスターフッド」は“風潮”を飛び越え、もはや社会に不可欠な“運動”となり、その様相は今もなお多くの物語の世界でも活写され続けている。かくいう私もオンライン上で「Me too」と声をあげ、時には声を重ねてもらって、隣人と連帯することで互いを肯定しながら、大きなもの、長いものへの「No」を表明した一人である。そのことによってようやく解決した問題もある。シスターフッドはやはり不可欠だ。

しかし、こうも思うのである。

私たちはなぜ、ここまで連帯を、共助を、余儀なくされているのだろう。

劇26.25団『振り向け!』 撮影:宮川舞子

同じ女性といっても、私たちはそれぞれ湿度の異なる悲しみや苦しみ、手触りの異なる喜びや愛おしさを背負って生きている。抱えているものも、その形や重さも全てが違う。雨宮奏子と鴻坂萌にしたってそうだ。安定した収入があり、一人で暮らす雨宮と貧困に追い詰められながら子どもと生きる鴻坂は即時的に支え合うことができたとしても、一度も衝突せず、全てを分かり合いながら生涯を生きていくのは難しいだろう。子どもが起こした性加害トラブルや正しい性教育に思い悩む鴻坂の苦悩にも、穏やかに優しく生きているように見えて、人知れず抱えている雨宮の孤独や葛藤にも、互いにぴたりとは寄り添い切れないだろう。

これは日常におけるほんの些細なことにも言えることで、例えば、電車で席を譲る時もそうである。「助けたい」と思う人間がいるだけではそれは実現しない。相手が「施しを受けたくない」と思っている場合、それは喜びどころか忽ち迷惑になってしまう。電車の席でさえそんなことが起き得る私たちが、心の底から納得して他者に頼り、頼られて、しかしながら立場は対等に人生を送ることなどきっと難しい。そのために本当は公助があるはずなのだ。しかしながら公助が機能していないこの国は「であれば共助を」と言うのである。しかし、まだまだ世の中は偏見に塗れていて、夫を亡くしたシングルマザーであるがゆえに不憫な者として後ろに回されたり、一組の親子と一人の女性の共同生活に対して同性愛を嘲笑するような眼差しを向けられたり、する。公助も機能させず、「であれば共助を」と言いながら、共助をさせてくれないのもまたこの社会で、そうして自助に限界を感じた人から順番に消えていってしまう。社会という箱の中にどれだけ声を丸めて投げ続けても、前にいる人間の壁によって、それらは弾かれ、かき消されていく。この演劇は徹頭徹尾そのことを描き出し続けていた。片方の手と手を取り合って、もう片方の手でともに偏見や圧力をかき分けていく女性の姿。そんな強く美しきシスターフッドの煌めきが物語の世界に溢れる中、そうはいかない現実の痛ましさと憎らしさと腹立たしさを描いていた。それは今、とても必要なことであると私は思う。

劇26.25団『振り向け!』 撮影:宮川舞子

雨の中、子どもを背負って消えていった鴻坂の方を振り向く者はいるだろうか。いてほしいと願う。しかし、それよりも先に、もっと大きなところから当然のことのように手を差し伸べてほしい。ただでさえ周囲に気を遣い、懸命に生きている鴻坂がもう1mmも気を遣わなくていいように、この親子がちっとも惨めにならなくてもいいように、ただ当たり前の権利としてそれが成されてほしい。そのためのラストシーンであったのではないか。そのための始まりのシーンであったのではないか。

一人の劇作家が、俳優たちが、関わる人々が、数ある劇場、もっと数ある小劇場の一つ、その中から声をあげている。丸めて投げつけているのである。そのことによって振り向いてもらわなくてはならない相手がいるから。振り返ってもらわなくてはならない過去があるから。その相手は言うまでもなく社会。私たちにシスターフッドを余儀なくさせる、この社会である。

 

― 後方の誰かに向かって振り向く自分の姿と前方の誰かが自分に向かって振り向く姿。

「振り向け!」という言葉を聞いて、今、私は前方の大きな誰かがこちらに向かって振り向く姿を思い浮かべている。カーテン越しに、あるいは箱のそばで、振り向き、そして振り返れ、と願っている。私の横には多くの同じ思いの、別々の人生を生きる人間がいるはずだ。だから、今こそ、ここから投げつける。隣人に向かって言う「Me too」ではなく、前方に向かって叫ぶ「Look Back」という声を。

劇26.25団『振り向け!』 撮影:宮川舞子

【上演記録】

劇26.25団 20周年記念公演

『振り向け!』

作・演出:杉田鮎味

@下北沢OFF・OFFシアター

2024年11月22日(金)〜24日(日)

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